こんにちは。
母の闘病記録の続きを書いていきます。
白血球の問題でしばらく入院生活を送ることになった母。
そんな入院生活が数日続いたある日、急に病院から連絡があり容態が悪くなったので来て欲しいとの事でした。
また白血球の問題か…と、あわてて病院に駆け付けた私と父。
病院に到着し、状況を聞くと今度は
脳卒中を発症してしまい意識が無くなってしまったとの事でした。
トイレに行く時に転倒したあとに発覚したとかだった気がします。
何故、脳卒中に?
その原因が何かはわかりませんでした。
しかし、その時私は悪い方に考えてしまい
「抗がん剤が原因ではないのか?」
「白血球の数が減少してしまったのが原因?」
「というか、そもそも治療を始めてからどんどんと悪い方向に行っているけどどうして?」
と嫌な思いしか浮かばなくて担当医に強く詰め寄ってしまいました。
前にも書きましたが抗がん剤で良い方向に回復した人もいらっしゃいますし抗がん剤治療を否定するわけではありませんが、この時だけは
なんで母ばかり…
なんでウチの母ばかりが…
そんな気持ちを持たずにはいられませんでした。
何とかお医者様の尽力もあり一命は取り留めた母が目を覚ました後に残った後遺症は
・左半身不随
・重度の記憶の障害
でした。
もう、私たちのことも分からない。
もう、自分で動くこともできない。
「何より一番辛いのは忘れられてしまうこと」
どこかで聞いたことのあるようなフレーズが私の頭の中で響いていました。
後に父から聞いた話ですが、ある時には母は記憶の障害で私たちは家族ではなく暴力を振るう人間だと思ってしまい、私たち親子を
「暴力親子!!」
と父に罵ることもあったんだとか。
何でこんなことに…
何で…何で…何で…!!
この時ばかりはこの世のすべてが嫌になるほどの気持ちを抱いてしまいました。
しかし父はそんな状況でもめげずに毎日のように母に会いに行っていて本当にこの人は凄いなと思いました。
私も仕事が休みの日には足を運んでいましたが、ある日どうしても母と二人だけで話がしたくなり仕事終わりに一人で会いに行った日がありました。
当時、毎日お見舞いに行く父が私の車を使用していたので私は職場まで自転車で通勤していました。
職場から病院までは30分くらいかかりましたが、それでも私は
「もしかして二人で話すれば何か思い出してくれるかも」
そんな淡い期待だけど少しでも思い出して欲しい、という気持ちで病院まで向かいました。
着いた時には夜の面会時間まであと少し…時間も少なかったですが私は母のベッドの横に座りゆっくり声をかけました。
「気分はどう?」
そんな声をかけたり、色々な話しもしてみましたが気のないような返事でボーっと宙を見つめる母。
しかし話している内に何かを思い出したのかしきりに
家に帰ろう。
家に帰ろう。
って何回も私に言ってきました。
半身不随で寝たきりだからもう帰ることのできない家。
母の中では記憶が曖昧でもきっと帰ることが唯一の希望で昔みたいに家で家族と過ごしたかったんだと思います。
そんな事を思う母の姿に耐えられなくて、病気が判明してから母の前で絶対に涙をみせないと誓っていた私も耐え切れず、個室部屋のトイレに逃げだし号泣したのを覚えています。
「何で母がこんな目に…自分が変わってあげたいよ…」
「母の病気を私に変えてください、そして母を家に帰してあげてください。」
トイレの中で泣きながら本気で神様にお願いしました。
こんな残酷な事ってないよ…
何で頑張って生きていた人にこんな仕打ちをするのか…。
そんな事を思いながらも何とか私は母と一緒に帰れないかと、そんな気持ちになりました。
面会時間も終わりに近づき私は母に
「絶対家に帰ろう。また来るから」
と言いました。
そしたら驚く事に母はいつもの様に
「ありがとうね。」
と笑顔で答えてくれました。
「ありがとう」
母のいつもの口癖、いつもの言葉
その言葉を聞いた時、もしかしたら記憶が戻って来ているのでは?と私の中で微かな希望が見えた気がしてとても嬉しかったのを覚えています。
家に帰る
そんな簡単で当たり前のことが出来なくなってしまった母。
帰る場所があるって事、帰れる場所があるって事。
いつまでも大切にしたいと思います。
その後の話なのですが抗がん剤治療もできなくなった母は緩和ケアのため病院を移り、終末看護なっていくので実質闘病ブログとしてはここで終わりです。
この後は余命まで母と過ごした日々、母との思い出や家族の出来事を書いていきたいと思います。